齊藤依の自分以外他人理論

言の葉を置く場所

自分以外他人理論とは

眠れぬ、孤独な夜に、こんばんは。

今日はわたしの卑屈で醜い考え方について書記そうと思います。

わたしは血縁関係にある家族、恋人、10年来の友人、どんな人間であれ他人だといつからか、そう考えています。
あなたのため、お前のために言ってるんだ。
そんな言葉を吐き捨てる人間こそ、信用に値しないと思っています。
以前は自分以外の人間に他人というラインを無意識に引いている状態で他人のアドバイスをありがたいものだと受け止めていました。
しかし他人の悩みを聞いてアドバイスをする立場になった時、自分のしてきた体験と置き換え、追体験をして考えていることに気づいたのです。
つまり血縁者であろうが、10年以上そばで見てきた友人であろうが、その人のことを100%理解するなんて不可能であり、自分のことを他人に100%理解してもらうことも不可能なのだと、気づきました。
だからわたしのことを理解した気になってあなたのため、お前のため、なんてその人にとっての正しいを振りかざしてくる人間は信用に値しない。むしろ敵です。
その人と価値観や考え方が似通っているのならば、話は少し変わってきますが、わたしの価値観や考え方と似通った人間ならばそういう言い方はしないでしょう。
そしてそんなアドバイスを投げかけてくる人間というものは恩着せがましいという経験則があります。
社会に出て仕事をしていた頃。上司がそういう人間でした。
周りの友人にあとから話を聞くと「お前は洗脳されてた。」と言われました。
わたしは倒れるまで働かせられることになるのですが、そうなった今でもその人たちにはお世話になったと思っています。
敵だとか信用に値しないだとかそんな言葉を並べましたが、悪い人だと言いたいわけではないのです。
そういう人たちは味方につけると自分自身のことを守ってくれます。会社やその組織がファミリーだという共通意識を持っているのです。
裏を返せばファミリーの輪を乱す行為やファミリーから離れる際に、少々厄介なことが起きます。
あなたのため、お前のため、に力を尽くしてきてくれた大人たちは恩を売っているので「あの時の恩は忘れたのか、この薄情者め。」となるわけです。
だからお金の発生する仕事上は、わたしは一歩引いた関係がベストだと思っています。親密になってはいけない。そう思います。

家族に関しては語るまでもない、と言うよりわたしの中で答えがまだ見つかっていません。
母親や祖母と楽しく会話する時間は大好きです。しかしながら同時に家族はわたしにとって諸悪の根源であり、自分の中で全て清算し終えたあとなのにも関わらず、恨みや憎しみの感情は消えません。
わたしは気分屋、なんて言葉では収まりきらないほど気分の浮き沈み、熱くなったり冷めたりが数分単位で酷く入れ替わります。
家族と楽しく会話をするのが好きな反面、声を聞くだけで不愉快な感情になり自室に閉じこもることもあります。
例えば母親が風邪を引いた。わたしは心配性なので「大丈夫?熱は?病院連れてこうか?」なんて声をかけます。
しかしそう本気で思って口で言ってる自分と「苦しめ。いっそのこと死んでしまえ。」と実の母親に対して思う自分が同時に存在するのです。
苦しくてたまりません。思いたくて思ってるわけでも、なりたくてこうなったわけでもないのに。
この両極端な自分にどう対処していくかはまだ、答えが出ていないのが現状です。

では、友人や恋人はどうでしょう。わたしは2020年にこんな自分の考え方や在り方を許容してくれる人たちと出会いました。
しかし心の距離が近づくにつれ、その人を見る目のピントが合わなくなるのです。
どう接したらいいのか、これまでどう接していたのか見失います。
親しき中にも礼儀あり、という言葉はとても理に適った言葉だと感じている今日この頃です。
いくら自分が自分らしくいられる場所でも、他人への配慮を怠ってしまい、友人を失いました。
仲直りしたいと思ってはいますが、相手が望んでいないとしたらそれは叶いません。
数年かけて築き上げてきたものが少しのズレ、その場の感情での勢いでいとも簡単に崩れ去るのです。
わたしは傲慢なのでわたしを受け入れてくれる存在は誰一人として取りこぼしたくない。苦しんでいる人間を見ると救いたくなってしまいます。
自分以外他人なはずなのにお人好しだと言われたことがあるくらい他人を救おうとしてしまいます。
わたしは小さい頃「自分がされて嫌なことを人にしてはいけない」と教えられてきました。
だから自分がされて嫌なことは基本的に人にしないし、されて嬉しいことを積極的にするようにしています。
人に「あなたは優しい」と最近言われたのですが、結局それだけです。
わたしが他人に対して嫌なことをするときは大抵わざとでしょう。
それかわたしの感覚では嫌なことではない場合です。
嫌なことではないことをして嫌だったと言われるととてもショックです。
頻繁にありますしわたしの感覚は常人のそれとは違うのだと痛感してしまうので。
わたしは自分のことを受け入れることも、許すことも、認めることも、殺すこともできない人間です。
だからこそどんな人のことも受け入れ、許し、認めます。殺すことはしません。
ただ、それだけなんです。本当の優しさなんてものは持ち合わせていません。

わたしはわたしを殺したがっています。
死にたい、と願ってから漠然としたその思いと、死ぬべき理由を積み重ねて生きてきました。
社会に必要のない人間ランキングがあればかなり上位に食い込む人間だと思っています。
社会に必要のない人間とは具体的に何かと言うと
「お金という価値を産み出していない、生産性のない人間。」
です。自分含めそういう人間は淘汰されるべきだという価値観を持ち合わせています。
最近になって、自分の在り方を認めてくれる存在がいるから、自分も生きていていいんだと思えるようになりました。
だからわたしは今、生きていていいんだよ、と人に言葉をかけるようにしています。

そして人からのアドバイスを受けるときも、人にアドバイスをするときも共通して思うことがあります。
「自分の人生なんだから選択するのは自分自身。自分の本当の心の声に耳を傾けろ。」
というものです。わたしにアドバイスを授けてきた人間はそれに従わなければ否定してくるような人間でした。
わたしがしたいことというのは一般常識からすると突拍子もないことで、周りの人間に現実主義者が多いこともあり否定されてきました。
それが怖くて、苦しくて、嫌で、現実的な選択肢をとってきましたが成功した例はありません。
だからこそわたしは人から相談を受けアドバイスする際にも「わたしを含め色んな人の色んな視点からのアドバイスを聞いた上で、自分がどう思ったかちゃんと心の声を聞くんだよ。」と最後に一言添えるようになりました。

わたしは自分というものが確立できずに悩んでいましたが、自分が嫌だとかネガティブな感情を抱くものを徹底的に排除していった結果。自分というものが確立されました。
その代わりスポンジのように人の考えを吸収できる柔軟さを失ってしまっているので、そこが課題ですね。

それが顕著に表れているのが「目には目を、歯には歯を。」の精神で最近は生きているなと自分を客観視したときに感じることです。
否定的な人には徹底して否定的な言葉を返しますし、肯定的な人には肯定的な言葉を返します。
これは批判的な人を遠ざけるわけでも、周りの人間をYesマンで固めることとは少し違っていて
「お互い違う価値観や考え方を持っているけれど、それはそれでいいよね。」
と互いに許容し合った上で互いに批評し合える人と一緒にいたいと思います。

もっと複雑で細部に渡ると繊細な考え方や感覚が掘り出せば掘り出すほど出てくると思いますが今日はここまで。

次回は自分のセクシャルとコンプレックスについて書き記したいと思います。

それでは。