齊藤依の自分以外他人理論

言の葉を置く場所

どれだけ惨めか、あなたにわかりますか?

 

今日も朝起きれなかった。

今日も遅刻をした。

今日も眠れなかった。

今日も起きたら体調が悪かった。

 

迷惑かけてごめんなさい。

 

小さい頃から親に学校の先生に友達に。

大人になっても親に仕事の上司に友達に。

 

迷惑かけてごめんなさい。

 

当たり前のことが当たり前にできない毎日。

「誰だってあるよ、そんなこと。」

理解してくれていないけれど優しい、慰めの言葉。

 

迷惑かけてごめんなさい。

 

怒られて謝って気を付けて直そうと治そうと来る日も来る日も努力した。

それでも私にはできなくって怒られて怒られて謝って謝って。

 

朝起きれなかった、ごめんなさい。

遅刻しました、ごめんなさい。

眠れなかった、ごめんなさい。

今日どうしても体調が悪くて、ごめんなさい。

 

謝り続ける日々がどれだけ情けなく、惨めなものか、あなたにわかりますか?

煩わしい。

煩わしい。
ああ、煩わしい。

 

朝を知らせる陽の光も。

 

腹を減らしやってくる野良猫も。

 

私に向けられていた期待のこもった優しい眼差しも。

 

「おかえり。」
と声をかけたときのしょぼくれた背中も。

 

「ただいま。」と
声をかけたときの心配から安堵に変わる表情も。

 

小さい頃から変わらない地元の町の空気も。

 

「よう。」
といつまで経っても変わらない声も。

 

知らぬ存ぜぬで息苦しい世界も。

 

画面から溢れかえる言葉たちも。

 

大好きなアーティストの歌声も。

 

愛した人達との思い出も。

 

私が必要としている貴方も。

 

私を必要としなくなった貴女も。

 

煩わしい。
煩わしくて愛おしい。

 

煩わしい。

煩わしく感じる私も。
愛おしく感じる私も。

 

煩わしい。
ああ、煩わしい。

 

 

音楽の歌詞にしようとか自分の作品にしようと眠っている言葉達をブログで公開してみることにしました。いかがでしょうか。埋め込み機能を知ったので各種SNSや動画配信サイトを貼りつけておきます。

 

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鬱という病について

おはようございます。こんにちは。こんばんは。

間隔が短い更新となりました。今日も寒いです。

 

Twitterを見ていると「心の弱さとは、強さとは」という観点から鬱病について書いてあるツイートを見かけました。

それを見た時に私は精神疾患の当事者そうでない方含め、鬱病ならびに精神疾患について正しい評価や認知がされていないなと感じました。

 

皆さんは精神疾患、あるいは自律神経失調症をご存知でしょうか?

メンタルヘルス略してメンヘラという言葉が定着したり、ADHDアスペルガーという言葉も幅広く知られるようになりました。

精神科・心療内科メンタルクリニックで診てもらう病気だから心の病とされています。

私は近代医学においてこの認識は間違っているのではないかと思っています。

 

人間は物事に因果関係を求めがちなものです。例えば心の病と聞くと「辛いことや悲しいことが起因して鬱病になってしまったのか。」と考えるのが普通でしょう。

しかしそれは精神疾患でない人にでも起こりうる現象であり、精神疾患の患者さんに向けてそうでない方が「自分もそういう経験あるよ。大丈夫。」と慰めの言葉をかけるも、実際その人が抱えている病気は全く別物であり、逆に傷つき傷つけてしまうケースも少なくありません。

 

それでは精神疾患精神障害とは一体なんなのか。私が思う答えは脳の病気です。実際脳神経医学の研究で神経細胞から出る物質やホルモンのバランスが崩れているという学術記事が多く出ています。

 

動物に個体差があるように我々人間にも個体差があります。その結果身体的もしくは精神的ストレスに強くなくそれが起因となって脳に異常が発生してしまう人もいる。同じ度合いの身体的もしくは精神的ストレスがかかっても問題ない人もいる。

 

私も精神疾患を持っておりそんな自分を受け入れることがつい最近までできませんでした。自分を向き合い続け自分を知り勉強をしてやっと受け入れることができました。

私の場合、どれだけ喜ばしい予定だとしても予定があること自体にストレスを感じてしまいますし、どれだけ逆算をしようが時間を守ることがとんでもなく難しいです。

この文章を読んで理解できない人も多いと思うので私のことはいいのですが、それを許してくれる友人や家族を大切にしてみようだとか、当たり前のことが当たり前にできない代わりにこうして文章を書くことは人より得意かもしれないだとか、そういう風に自分と他人を受け入れながら生きていってほしいです。

 

少し心を軽くするための堅苦しい文章として短く書くつもりだったのに長くなってしまいました。

 

とりあえず、私のことが好きな人も嫌いな人もそうでない人も知らない人も、いつか幸せだって言えるように生きていてほしい。それだけです。

 

それでは、お元気で。

「現状に満足するな。」という言葉の語弊

お久しぶりです。あけましておめでとうございます。

これをご覧の皆さんはお元気ですか?こちらは元気でもないですが生きております。

 

最近思うことがあるので書き記しておきます。

 

「現状に満足するな」という言葉を耳にしたことはありませんか?私は幾度も聞いてきたのですがイマイチピンときていませんでした。しかし最近この言葉の意味を理解できた気がします。

私はオリジナル曲を世に出したことはありませんが音楽をしている人間でしてお蔵入りになったオリジナル曲でいえばたくさんあります。そしてそれの根源となっていたエネルギーはネガティブな感情・負のエネルギーだったと思うようになりました。

夏目漱石太宰府岡本太郎ピカソ宮崎駿庵野秀明も、そして私の大好きだった故ぼくのりりっくのぼうよみ

あらゆる創作物はネガティブな感情・負のエネルギーから産み出されているものだと私は思っています。

もっと言うのであれば宗教や思想の成り立ちに至っても闇があるから光が生まれたのだと思います。

 

私は今世間からすれば苦労を強いられている状況でもしかしたら見る人によっては不幸かもしれません。しかし私が私らしく生きられていて、自分や周りの人のことを受け入れられるようになりました。すると小さな幸せを見つけられるようになって、とても幸せに生きているんです。

 

だからこそ、幸せだからこそ、私は今創作意欲が全くと言っていいほどありません。歌を歌うことは大好きだし言葉のことも大好きです。それは変わらないのですが歌詞にしたりして世に遺したい言葉は浮かんできません。過去を振り返って言葉を書き綴っても薄っぺらいものになってしまいます。

 

これが「現状に満足するな。」という言葉の真意だと思います。恋人や友人、家族と過ごせてハッピー!というような一時的な幸せという感情は素晴らしいものですが、安寧に辿り着いてしまうとそれ以上の何かを欲することがなくなってしまうのです。

周りの人や自分、社会への不満。あれもしたいこれもしたいという欲求。もっとこうするべきだ、ああするべきだという傲慢。

それが私達人間が何かを創作する、もしくは行動する際のモチベーションになる。

「人は幸せになってはいけない、不幸であれ。」

なんてことは言いませんが私はこう結論付けました。

 

永遠なんてものはこの世に存在しないはずなので、私が今心地良く収まっている安寧のポジションもいつか終わりがくるでしょう。その時私がどうするかなんて今の私にもわからないので興味のあること楽しめることを探求して牙を研いでおこうと思います。

 

「現状に満足するな。」を肯定したかのような内容になりましたがそういわけではありません。

別に現状に満足したっていいじゃない。また抗えぬ何かで動き出す時がくるんですもの。

 

以上にしたいと思います。それでは皆さんお元気で。

23年目にして性自認が男性から女性になった話

はじめましての方もそうでない方も、齊藤依です。
私は体は男性で心も女性、そして女性で在りたいと思っている人間です。23年間生きてきた末に何故性自認が男性から女性に変わったのか。というより何故私が男性として生きていたのか。私として生き始めて2年目に突入して明確にわかった気がしたので書き記したいと思います。

私は幼少期から人に喜んでもらうことが好きでした。それがいつからか自分の中で「他人からの評価=自分の評価」になると思ってもみません。ですが私には独特の感性や感覚があるようでした。突拍子もないことを言ってしまった時の凍ったような色合いの空気と視線が怖かった。だからみんなが暖かい空気になってくれる話をするようにしていました。可愛がられってもらえる、かっこいい男の子として。
その後小学校の頃に親が離婚をし死にたいという気持ちが芽生え中学で不登校になり高校は通信制に通い専門学校に行くも中退。社会人になってからは目についた職業全てにチャレンジするも長くは続かずリタイア。
幼少期の根底の話や学生時代の話も以前記事にしているのでさらっと表面的な事実を書きました。
私は自分で言うのもおかしいんですが期待を背負って産まれた男の子だったんです。跡継ぎとして。勝手に背負っていたのかもしれません。親が離婚した時、不登校になった時、普通の高校に行けなかった時、専用を中退した時、会社を辞める度、私はいつ見捨てられるのかということに怯えていました。母親や祖父母を経済的に支えられるようにならなきゃいけない。父親にもいつの日か認められ跡継ぎにしてやってもいいだろう。という評価をされなければならない。方法や日にちを考えて未遂に終わりましたが実行してしまうほどに自殺志願者だったのに私は他人に評価されたかったんです。でなければ価値がないと思っていたから。

そして一旦、恋愛や性的な話に移ります。これから話す内容は性交渉の話も出てきますので苦手な方はすみません。それでも読んでいただきたい話です。

私は男性として女性と恋愛をしてきました。それに伴う性的交渉も。幼少期から私は人に喜んでもらうのが好きだったという話をしました。私にとってその行動は好きな人に喜んでもらうために尽くす性行為でした。だから私は「なんで?」と恋人に何度も聞かれたことがあるのですが自分が絶頂せずとも行為をやめてしまうことがありました。しかし私も性欲がある人間なのでその場の私利私欲が混ざってしまっていたかもしれません。しかし罪の意識に苛まれていました。今も尚です。男性の社会人として仕事仲間や友人と風俗店に行ったこともあります。私には何が楽しいのかわかりませんでした。ですが突拍子もないことを言って凍った視線と空気を感じることが嫌でしたので思ってもいないことを発言しながらノリノリでついて行きました。お金を払って人を買うような真似をして性行為をする。悪いとは言いませんが私にとっては最低な行為でした。だから性行為をするだけの友達やそのためにお金を払う男性というものが苦手です。恋愛対象として見れません。

つまり私が23年間、もしくは自分が死にたいと思い、こんな自分は生きていく価値がないと思い続けた10年以上もの時間してきたこと。

それは自分が男性で在り続けるという最大の自傷行為でした。

この話を聞いて本当か?と思う人も多いでしょう。男性としての私しか知らないはむしろ信じない。何故ならそこには男性として生きてきた事実しかなく私の中にあった真実がないからです。私自身も自分自身を騙し傷つけることで自分を殺し気づかずに生きてきたからです。

自分らしさを認め受け入れ許した時に本当の自分に出会えて私は今幸せです。
自己肯定感という言葉が苦手だという話を最近しました。どうにも「自分を褒めろ」というプレッシャーを感じる言葉だと感じるので。しかし過去の自分が今の自分に「自分のことが好きか?」と聞くと「その時の自分よりは好きかも」と答えるでしょう。

ちなみに余談ですが「じゃあ女性だけが好きなのか?」と聞かれると以前は良くわからないけど今までがそうだったから「はい」でした。今は違って「好きになった人が女性だった」という感覚です。男性への恋愛的や性的な苦手意識はまだまだありますが、これからもっと私は私に素直になって男性であろうと女性であろうとそうではない人であろうと、好きだと思った人を好きになると思います。

この記事をここまで読んでくださった人、私の友人にも、思い悩み苦しんでいる人がいると思います。だから私は過去の自分をさらけ出しどうして死にたくなくなったかを発信したいんです。
綺麗事のような月並みな言葉にはなりますが、好きな人嫌いな人知ってる人知らない人善人悪人関係なく、私には死んでほしい人間などいません。
少しでも誰かが自分を見つめ直して前を向けるきっかけになればなという思いと、私が過去の話をさらけ出すことで罪の意識を贖罪になればと思い書き記しました。

以上です。

「トランスジェンダーと女装してるだけの性犯罪者は区別しないきゃね。」

「この人は綺麗だから女性らしく生きることが認められてるけど(中略)トランスジェンダーと女装してるだけの性犯罪者は区別しないきゃね。」
タイトルにもしましたがこれはジェンダーレスについて告白した方へのコメント欄で見かけた言葉です。
「女装って性自認が女じゃなくてただの性癖でしょ(笑)勘違いすんな、男共(笑)」
次にこれはわたしがすごく見た目が綺麗で素敵だなと思ったmtfの方が言っていた言葉です。
大谷翔平みたいに性別で二刀流がしたいってこと?それってただのわがままじゃない?」
そしてこれはXジェンダーを告白したの方へ寄せられたコメントです。
レズビアンなの?じゃあ女友達みんなそういう目で見てるってこと?」
3つ目、これはレズビアンの知り合いがかけられた言葉です。
「女になりたいのに女が好きなの?ただの変態やん。」
最後にこれはわたしが実際にmtfの方に言われた言葉です。

全て人が人に投げかけた言葉です。

わたしは次の誕生日で25歳になります。でも「わたし」として生きはじめてまだ2歳です。男として生きてきた時間のほうが長い。身長も体も大きくて男性っぽい。声も低くて喋り方も今でも男性っぽいままな気がする。「わたしはわたしである。」という意思や考えはあっても「わたしはわたしである。」という自信はありません。
そしてわたしは性自認が女性であり女性になりたいにも関わらず男性の恋愛面や性的な面が苦手です。自分の体も気持ち悪く感じることがあります。だから今のところ男性と恋愛をしたことがありません。友達として一緒に遊ぶ分には何も感じません。好きなアーティストや俳優さんも同様です。逆に女性には平等に憧れます。つまりある意味フィルターがかかった状態で見てしまいます。同時に女性を恋愛的に好きになることがあります。2年の間に1人の女性と女性としてお付き合いしました。

恋愛や友人関係、わたしがわたしであること。そんなことを考えるときに冒頭にあげた言葉たちが頭をよぎります。

わたしってなんなんだろう。女の子になりたいし心は女の子だよって思ってるのって間違ってるのかな。本当はただ女装してるだけの男なのかな。みんなにはそう見えてるのかな。可愛い声出してみたいけど今まで通りみんなと話せなくなったら嫌だな。普段通り低い声で面白おかしく話そう。わたしのことを女の子として認めてくれてるなら恋愛対象として見るべきじゃないよね。性自認が女性なら男の人好きじゃないとおかしいんだよね。

こんな風にたくさんもやもやと考えてしまいます。過去の記事を読んでもらえれば詳しくわかると思いますが、死にたかった自分が死にたくなくなっただけでめちゃくちゃハッピーになんです。だから脳天気に生きていて意外ともやもやは湧いてはふっと消えるのですが、コンプレックスだったり悩みであることは間違いありません。

LGBT当事者から世間への言葉、世間からLGBT当事者への言葉、LGBT差別への反対運動の言葉。どれを取ってもその言葉の意に反するところでわたしみたいなもやもやした気持ちになる人はいます。

言葉は矮小化されるし歪んで意味が伝わります。
「海は青くて広い。」
この言葉で思い浮かぶ情景は人それぞれです。捉え方が人それぞれ違うからこそLGBTだけではなく、家族、友人、恋人、人種、男女…どんな話題でもどんな相手にでも自分の意図していない関係のないはずの人の感情を揺さぶってしまう可能性があるんです。

だからわたしのことを理解できなくてもそういう考えがあってもいいよね!程度に考えて言葉は大切に使い合える優しい世界になってほしいなと思います。

才能、緩やかな挫折、消えない希望

今はほぼ動いていないが私は一応音楽活動をしている。
小さい頃から音楽が好きだった。でも決して上手ではなかった。上手いと言われたこともほとんどない。言われたとしても素直に受け止めることが未だできないでいる。
中学生の頃に訪れた変声期から今も地声の高音域は低い。優里さんの「ドライフラワー」や米津玄師さんの「Lemon」の原曲キーがギリギリ出ない。
私の世代は高音域の曲が増え原曲キー主義が蔓延った時代だったのですごくコンプレックスだった。
学生時代、音楽活動を始める前から地元先輩にギターを教えてもらい、知り合いのシンガーの方にご教授してもらいながら必死にそのコンプレックスを解消しようとしながら音楽を楽しんでいた。
2020年、自分らしく生きることを目標に掲げ音楽活動をスタートさせた。Youtubeを見漁ってボイトレをしてみたり歌唱力向上に勤しんだ。楽しくて仕方がないし今もそれは変わらない。
でもいくら自分の歌がマシになっていてもどうしても自信が持てない。歌唱力という点でマイナスからスタートして平均より+1くらいの位置にいても何も音楽の勉強をしていない状態で上手だねって言われる人にすら勝てない。
曲を作ってもメロディも歌詞も違う。私が表現したいのはこんなものではないと心底思う。それを評価されたところで嬉しくないので世には出さない。
こんな風に歌詞の原文など文章を書いてるときは0から1を創る作業が散らばったパズルのピースを嵌めていくだけで満足感が得られるものなのに、音楽に変換しようとした瞬間、苦行に変わる。
私は私を信じてあげられることも、勘違いし続けることもできない。

話は変わるが私の父親は経営者で仕事人間だ。普段話していても自分が正しいと信じて疑わないし、良くも悪くもその場の人を信じさせるパワーのある人だ。時には非情な判断もできる。とても経営者に向いている人だなと思う。
私はこの前初めて父親に感謝を伝えて電話を切ったあと嬉し泣きをした。
その時の会話で
「お父さんのその仕事に対してのモチベーションはどこからくるの?」
と質問した。するとお父さんは
「今は立場と責任かな。お父さんがやらなきゃ誰がやる?お父さんにしかできないんだ。」
そう言っていた。自分をそこまで信じているのは才能だ。言い方を変えるならば後ろ指さされようとも勘違いし続けているのも。

音楽でもスポーツでもプロの人は他人と自分で勝負していない。自分にしかできない。そう思って勝負してる。みんな自信に満ち溢れている。そんな人の音楽やスポーツのプレイを見て私は楽しんでいる。こんな風に伝えたいからこう歌うのかな。ここはこういう意図があるプレイなのかな。そんなことを考えながら楽しんでいる。

私は自分自身が思ったより平凡であることに絶望した。
私は音楽を提供する側ではなく楽しむ側なんだと実感し挫折した。
でも私が私として生きていく以上唯一無二の存在になって何かこの世に遺すんだ。という謎の希望がある。

私にできてみんなにできないこと。みんなができて私にできないこと。画面の向こうのあなたができて私にできないこと。私にできて画面の向こうのあなたができないこと。
それぞれたくさんあると思う。私は音楽に関して私を信じてあげられる才能が欲しかった。勝負なんてしていないのに負けた気になる。そんなの私がかわいそうだ。
でもそんな私でもきっと何かに秀でた才能があるはずだと信じて疑わない。その才能はあるからだ。
人は誰しもが絶対に何か秀でた才能を持っている。したくもない仕事を週5日朝から晩まで定年までやり続けることも才能。人の良いところ悪いところを見抜いて揚げ足を取ることも才能。意味のないことを喋り続けられるのも才能。笑ったり泣いたり怒ったりできることも才能。
私はそう思う。何故かというと才能という言葉や一長一短という言葉。面接で長所や短所を質問され答える文化。それが今に至るまで残っているからだ。才能が一握りの人にしかなければ才能というものは神話や空想のものとして扱われていただろう。そうではない言葉や文化が残っているのがその証明だ。

私は今日も音楽を楽しみ絶望し挫折をしては、希望を抱きながら生きていく。