齊藤依の自分以外他人理論

言の葉を置く場所

才能、緩やかな挫折、消えない希望

今はほぼ動いていないが私は一応音楽活動をしている。
小さい頃から音楽が好きだった。でも決して上手ではなかった。上手いと言われたこともほとんどない。言われたとしても素直に受け止めることが未だできないでいる。
中学生の頃に訪れた変声期から今も地声の高音域は低い。優里さんの「ドライフラワー」や米津玄師さんの「Lemon」の原曲キーがギリギリ出ない。
私の世代は高音域の曲が増え原曲キー主義が蔓延った時代だったのですごくコンプレックスだった。
学生時代、音楽活動を始める前から地元先輩にギターを教えてもらい、知り合いのシンガーの方にご教授してもらいながら必死にそのコンプレックスを解消しようとしながら音楽を楽しんでいた。
2020年、自分らしく生きることを目標に掲げ音楽活動をスタートさせた。Youtubeを見漁ってボイトレをしてみたり歌唱力向上に勤しんだ。楽しくて仕方がないし今もそれは変わらない。
でもいくら自分の歌がマシになっていてもどうしても自信が持てない。歌唱力という点でマイナスからスタートして平均より+1くらいの位置にいても何も音楽の勉強をしていない状態で上手だねって言われる人にすら勝てない。
曲を作ってもメロディも歌詞も違う。私が表現したいのはこんなものではないと心底思う。それを評価されたところで嬉しくないので世には出さない。
こんな風に歌詞の原文など文章を書いてるときは0から1を創る作業が散らばったパズルのピースを嵌めていくだけで満足感が得られるものなのに、音楽に変換しようとした瞬間、苦行に変わる。
私は私を信じてあげられることも、勘違いし続けることもできない。

話は変わるが私の父親は経営者で仕事人間だ。普段話していても自分が正しいと信じて疑わないし、良くも悪くもその場の人を信じさせるパワーのある人だ。時には非情な判断もできる。とても経営者に向いている人だなと思う。
私はこの前初めて父親に感謝を伝えて電話を切ったあと嬉し泣きをした。
その時の会話で
「お父さんのその仕事に対してのモチベーションはどこからくるの?」
と質問した。するとお父さんは
「今は立場と責任かな。お父さんがやらなきゃ誰がやる?お父さんにしかできないんだ。」
そう言っていた。自分をそこまで信じているのは才能だ。言い方を変えるならば後ろ指さされようとも勘違いし続けているのも。

音楽でもスポーツでもプロの人は他人と自分で勝負していない。自分にしかできない。そう思って勝負してる。みんな自信に満ち溢れている。そんな人の音楽やスポーツのプレイを見て私は楽しんでいる。こんな風に伝えたいからこう歌うのかな。ここはこういう意図があるプレイなのかな。そんなことを考えながら楽しんでいる。

私は自分自身が思ったより平凡であることに絶望した。
私は音楽を提供する側ではなく楽しむ側なんだと実感し挫折した。
でも私が私として生きていく以上唯一無二の存在になって何かこの世に遺すんだ。という謎の希望がある。

私にできてみんなにできないこと。みんなができて私にできないこと。画面の向こうのあなたができて私にできないこと。私にできて画面の向こうのあなたができないこと。
それぞれたくさんあると思う。私は音楽に関して私を信じてあげられる才能が欲しかった。勝負なんてしていないのに負けた気になる。そんなの私がかわいそうだ。
でもそんな私でもきっと何かに秀でた才能があるはずだと信じて疑わない。その才能はあるからだ。
人は誰しもが絶対に何か秀でた才能を持っている。したくもない仕事を週5日朝から晩まで定年までやり続けることも才能。人の良いところ悪いところを見抜いて揚げ足を取ることも才能。意味のないことを喋り続けられるのも才能。笑ったり泣いたり怒ったりできることも才能。
私はそう思う。何故かというと才能という言葉や一長一短という言葉。面接で長所や短所を質問され答える文化。それが今に至るまで残っているからだ。才能が一握りの人にしかなければ才能というものは神話や空想のものとして扱われていただろう。そうではない言葉や文化が残っているのがその証明だ。

私は今日も音楽を楽しみ絶望し挫折をしては、希望を抱きながら生きていく。